に親水護岸、人工の渚がつくられた。また、平成になってからは羽田空港の新設に伴って環境に優しいということで緩傾斜護岸が採用された。コンクリートの垂直護岸ではなく、傾斜した砂浜である。子供たちが水に手足を浸す、水に親しむ海岸というのが謳い文句だが、90パーセントまで私達が考える魚の再生産の場としての干潟機能のない海岸だ。その理由は、砂の入れたそのすぐ沖側は浚渫したまま、掘ったままの海中人工海食崖となっているからである。自然の海岸を埋め立てて、破壊しておいて、今度は人工の浜をつくる。どこか子供の泥んこ遊びににている。
3. 漁業補償と環境保護
日本が世界の先進工業国の仲間入りすることになった高度経済成長の歴史は、翻ってみると、漁師を海から駆逐して行った歴史でもあった。
昭和35年、当時の池田首相は所得倍増論を唱えて、それまでの海国日本から工業国日本への転換を図るべく檄を飛ばした。それからの東京湾は急速に変わっていった。漁業権の放棄、埋立地の造成、そこへの企業の誘致、水の汚染にPCB間題、そして海の環境は悪化していった。
所得倍増計画も工業立地も、国民の暮らしをよくするための発展というならそれも致し方ないであろう。しかし、ものには順序というものがある。公共事業が優先で、東京湾を生活の場にしてきた漁師の暮らしを無視するという、国家と企業の横暴振りはすさまじいものがあった。それまで漁一本で暮らしを立てていた船橋漁民に埋め立ての話が持ち込まれたのは、昭和23年に船橋港が指定港湾になったためであった。その結果、商港を建設することになり、航路幅員拡張と延長のための浚渫土砂の捨て場として、埋立地を計画したことに端を発した。大規模化したのは、千葉県が浦安から富津にかけての埋立地造成に乗り出した昭和30年代後半のことである。当時の千葉県の友納武人知事によれば、昭和50年代には、工業廃水と家庭生活排水で東京湾は汚染されて、もう魚業はできなくなるから、漁師はいまのうちに陸に上がって転業した方がいい、と漁民に解いて回ったのである。船橋の漁師も動揺した。漁師を続けていたいというものも大勢いたが、無理に残っても漁が続けられないのではしかたがない、という疑心暗鬼と灰色の見通しの中で、漁業権放棄賛成派が多数を占めた。
昭和44年の3月には漁業権の全面放棄が決まり、補償額は総額156億7000万円弱で妥結した。第一期工事分としてこの年の3月に半額が支払われ、第二期工事分として昭和48年3月に残りの半額と交渉による上積み分を加えた94億7000万円強を受け取った。そして船橋漁業組合は昭和48年3月27日付けで、共同漁業権、区画漁業権を放棄してしまうという正式文章に調印、これを国の窓口である県との間で取り交わした。
しかし、ここでいう漁業権はノリと貝をとる組合が管理していた漁業権漁業を指していて、巻網や底曳きの沖合漁業者は影響補償という名目で3分の1を受け取ったが、補償金の3分の2を返却して漁業権を留保した。いずれにしても、船橋漁協は江戸時代から死者を出しながら守ってきた、将軍家の御莱浦といわれた地先の漁業権を放棄して補償金を受け取り、漁師の多くは48年を境にして陸に上がった。それなのに現在でも、なぜ一度放棄した海でアサリやノリをやれるのかというと、それは当時予測ができなかった新たな社会状況が生まれたことによる。具体的には、オイル・ショックと200海里経済水域の問題が東京湾漁業を救ったといえるであろう。
オイル・ショックにより、それまで一貫して上向きだった工業の成長率が止まり、埋め立てしても進出企業が見込まれないとの理由から、補償はしたが、補償対象となった海域は残される結果となったのである。同時に、漁業権を放棄した漁師との契約条項の中に、漁業者を転業させ、必ず生活を安定させるという一項があった。しかし、オイル・ショックと相俟って、期待するほど漁師の転業はスムーズには行かなからた。それなら残った海面を漁師に開放して操業させ、一時しのぎでいこうという考えになったと思われる。さらに、51年から52年にかけてもう一つの問題が持ち上がった。それは200海里経済水域の設定と漁業専管水域という自国資源の保全という問題であった。すなわち、遠洋でとっていた漁獲量を沿岸や近海でとろうという方針が打ち出され、沿岸漁業、つくり育てる漁業の見直しが始まった。1年毎の短期免許を更新して24年、漁業は船橋市の重要な産業の一角を占めるまでに成長した。
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